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トピックス名: Re: 初産32週目 死産 1週間の今
作成者: よっちゃんママ

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No. : 183-2
件名: Re: 初産32週目 死産 1週間の今
名前: よっちゃんママ
日時: 2016/12/14 20:16
内容: megさん

初めまして。
私も先月11月に34週で死産をしてしまいました。

megさんの文章を読んでいるとまるで自分が書いたかのような気分になり思わず書き込みました。

お互い本当に辛い経験でしたね。

なんで私たちが?
何が悪かったのかな?
こんな試練必要なのかな??
無事に産んであげられなくてごめんね。。
これからどうやって生きていけばいい?。。

この子と過ごした濃厚な9ヶ月が全て後悔でしかなくなってしまって苦しいです。

沈没船で深い深い海溝にはまってしまい、どうやったらここから出られるのか、光のある方角が探せないまま、すっかり自分を見失ってるような状況にいます。


以下、とても長くなりますが私の体験も書いておきます。

胎動が少なくなった気がすると連絡して産院へ行ったとき、私も初めて2階に通されました。
私は里帰り出産を予定していたので地元に帰る予定日の前日の出来事でした。

助産師さんがドップラーで心音を探してくれたけど「ちょっとうまく探せないので先生にエコーで確認してもらってからにしましょう」と告げられ、再度待合室に戻り待つことになりました。
たくさんの人が診察を待っていましたが、前の人が終わってすぐに診察室に呼ばれました。

エコーを見てもらいしばらくして、
先生が淡々と「心臓止まってますね」と。
もう動いてないんだなというのが、エコーを見て素人目にもわかりました。

何が何だか訳が分からず、「はぁ!?なんで?なんで?!どうにかならないんですか?なんで?!本当に止まってるんですか?」

何かを施せば再び動くんじゃ無いかと思い、先生に詰め寄って取り乱していました。
もうあたま真っ白で胸のあたりがゾワッと痛み、パニックでした。

いまでもこのときのエコーがフラッシュバックし、胸が痛み、パニックになってしまいます。

旦那さんをすぐ呼べますか?と言われて、泣きながら先生の前で電話したら1時間ほどで駆けつけてくれました。

旦那を待つ間、2階の空いている病室に案内され、助産師さんがしばらくそばで寄り添ってくれました。

「あなたのせいじゃ無いから。だれにもどうしようもできなかったことだから、責めちゃいけない。辛いけど、ちゃんと産んであげましょうね。」と。

その時初めて知りました。死んでしまったこの子を「産む」必要があることを。

旦那曰く、私からの「心臓止まったって」という連絡で、初めて父親だと実感したんだそうです。
こんな残念なお知らせで父になるなんて。。

旦那が到着し、再度説明があった後、土日は家で過ごして貰って月曜日に分娩しましょう。ということになりました。

そこでまた私たちは混乱です。
お腹の中でこの子は亡くなっているのに、どうやって週末を過ごせと?

その間にご家族にも連絡してもらって原因を調べたいのであれば大きな病院に紹介状書くからどちらで産むかを検討して。。。との理由で週末を挟むことになったけど、まず、そんなに放置して良いものなのか?

だいいちこんな精神状態で何日ももたない。。。そう思ったけど、従わざるをえませんでした。
帰り際助産師さんが、「子宮内胎児死亡でも自然に陣痛が来ることはあるので痛みや張りなどの変化があったらいつでも来てください」と言ってくれました。

人目を気にする余裕もなく、涙を垂れ流しながらなんとか帰宅し、どうやって過ごせばいいのか不安な夜を迎えました。

旦那曰く、亡くなっている子を痛い思いして普通のお産で娩出するなんて辛すぎるだろうとのことで、どうにかならないのかと、無痛分娩で対応可能な病院を探してくれました。だけど受け入れてくれる病院は見つかりませんでした。

深夜1時過ぎ、お腹の張りが10分間隔で来るようになったので病院に電話し、「すぐに来てください」とのことだったのでタクシーで向かいました。

もう転院する気力も原因追求を考える余裕もなかったので「このままこの産院で産む」と伝え、分娩台へ。

補助台に足をかけた瞬間涙が溢れて足が止まってしまいました。
もう生きてこの子を産むことができない状態になってから初めて分娩台へ上がることが悲しくて、情けなくて。。。

そのまま張り計と血圧計、点滴を付けられ、陣痛を待ちました。

しかし私の血圧が上昇していて、妊娠高血圧症候群の疑いとのことでソウハクによる大量出血のリスクを考えた末、結局設備の整った大学病院へ転院となりました。

朝を待ち、救急車で搬送され、そのままMFICUの分娩台へ上げられました。
とても手際よく採血や点滴、心電図などあらゆるものが装着され、分娩計画の説明を受けました。
まずは極力自然な陣痛を待って行うこと。それでも強い陣痛が来なかったり時間がかかる場合はごく少量ずつ促進剤を使っていくこと。

子宮口を開くためにバルーンを使用すること。
(実際はラミナリアもつかって2回行った)

血圧が高めなので血圧抑制剤を投与しながらの分娩を行うが、万が一胎盤が先に剥がれて大量出血が起こった場合は輸血を行うこと。

陣痛で赤ちゃんが降りてこなかった場合は帝王切開に切り替えること。

それらのリスクの説明なども聞いた時、自分の命も結構やばいのか。。と今まで感じたことの無い恐怖に震えました。

スマホの暗証番号を旦那に教えておかないとダメかなとか、自分の居なくなった後の世界を具体的に想像し「死にたく無い」と思いました。

自分の娘はもう亡くしてしまっているというのに。。自分はまだ生きたいのかと。図々しいなとも思いました。
でもやっぱりまだ死ぬのは怖いのです。

逆子でもあったため、無理やり出すことでソウハクによる大量出血のリスクは高いのでは?と思い、だったら最初から帝王切開をお願いしようかと夫婦で話し合ったけれど、先生たちの中ではもう変更の余地の無い計画のようでした。

帝王切開のリスクは大きいのでできればやりたく無いと。次の出産を見越して子宮温存のために経腟分娩を優先にしたいと。

この時点で「次の出産」なんて言葉を聞いてもとんでもないなと思っていたけれど、
「これらはお母さんの身体を最優先に救うための処置なんです。最善を尽くしますから。」
そう言っていただけた時、もうこの人たちに委ねようと思いました。
と同時に、下手なことはできないなとも。

死ぬのは怖い。けど自責の念が募りこの先「消えてしまいたい」と強く思うことがあるかもしれない。けど、一生懸命救ってくれたこの人たちの仕事姿や眼差しは一生忘れられない。今日救ってもらったこの命は無下にはできない。

書面にサインした後、早速産道を開く処置へ。
が、コレがとんでもない激痛。
泣きわめきながらのバルーン挿入でした。

こんなに痛いと事前に知っていたら到底挑めないほどの処置だったけど、この子を亡くした私が今受けなければいけない痛みなのかなと思い、堪えるしかありませんでした。

処置が終わり、外で待っていた旦那が呼ばれ、先生たちは一旦別室へ。旦那は水にストローを挿して持ってきてくれていて、
痛みでぐったりした私に飲ませてくれました。乾燥する治療室に、分娩台の上にずっといなければならない状況だったのでとても助かりました。何より、そばにいてくれる安心感が半端なかったです。

病院のお昼ごはんの手配が間に合っていなかったので、おにぎりも買ってきてくれていました。

これからの出血を考えて気休めかもしれないけど鉄分補給に焼肉のおにぎりを買ってきたとのこと。お肉の部分を中心に小さくちぎって口に運んでくれました。
食欲はなかったけれど、その気持ちが嬉しくて食べることができました。

たまに張り計と血圧計を確認しに助産師さんが来つつ子宮口が開くのを待つ時間が続き、とても長く感じました。
途中トイレに行くも、股からバルーンの一部が飛び出しているので違和感やら出血やらで一苦労でした。

しばらくして、一旦バルーンを取り出しグリグリと子宮口のチェック。これも痛い。
これだけやってようやく1センチ開いたとのこと。
休む間も無く「もう一回やりましょう」と心の準備ができてないまま今度はラミナリア挿入へ。
子宮頸部を開く器具がカチャカチャと音を立てる。たまに鋭利なものがぐりっと周囲を傷つけてそうな勢いで擦れ、その度に激痛でお尻が逃げてしまう。

助産師さんがなんども「お尻下げて!」「力抜かないと余計痛いから!」と身体を抑える。呼吸で力を抜こうにも痛い作業が続いている中では仕切り直すのにも無理があり、最後まで激痛でした。

この日の処置はここまでで、MFICU内の一角にカーテンで仕切られた病室で一晩過ごすことに。
病室移動後しばらくしてから地元から母と姉が到着。晩ご飯は普通に病院食を食べ、翌朝6時くらいから浣腸や採血、バイタルチェックなどを進めます。とのこと。
そして万が一の帝王切開に備え、21時以降は水も飲めないとのこと。

母にこれまでの経緯を話しながら夕食を半分食べた。面会終了時間が来たので皆はホテルや自宅に帰り、再び独りになった。

お腹の子と過ごす最後の夜、寝つけないと思っていたけれど、前日も眠れておらず、昼間の処置で消耗していたのか、いつの間にか数時間ほど眠っていたようだった。

3時に目が覚め、6時までスマホで「死産」「子宮内胎児死亡」などで検索し、同じ体験者のブログを読み漁っていた。
週数も近く同じ経験をされた方のブログを読むとなぜか心が落ち着いていきました。
特に、死産後無事出産遂げている方を見つけては心から安堵しました。

6時になり、バイタルチェックと採血、浣腸の準備が始まった。
水分補給の点滴も装着し、全てが終わり、再び分娩台に上がる頃には8時くらいになっていたのかな。旦那が到着し、再び横についてくれた。今日は水も飲めないのでなんだか手持ちに沙汰な様子だった。

しばらくして旦那が外に出され、ラミナリアを外して子宮口のチェックが始まった。やっと3cm開いたとのことで(は?こんだけやってまだ3cm?と思ったけど。。)
まさかのもう一回?とビクビクしていたら、子宮口開く処置はこれで終了で、今から少しずつ陣痛誘発剤を点滴していきますとのこと。

点滴がもう一種類増えて、ここからは張り計と血圧計を見ながらの陣痛待ち。
立ち合いは1人だけしかダメなので母と旦那が交代で来てくれた。

陣痛の痛みを逃すマッサージを旦那と母と助産師さんが交代でやってくれた。
助産師さんのマッサージが絶妙で、最初はやり方がわかってなかった旦那も助産師さんの真似をしてどんどん上手になっていった。
母は経験者だけにかなりツボを押さえてくれていた。

そして陣痛から約4時間後、一度先生が子宮口を確認した時のグリグリで破水。温かいお湯がジャーっと流れていく感覚がわかった。
赤ちゃんが降りてきているとのことで急いで母→旦那に交代。

交代と先生たちの準備の間、いきむのを我慢するのが苦しい。。
準備が整い、旦那が横に到着後何度かいきみ、最大の痛みとともに、やっと赤ちゃんを外に出してあげることが出来た。

ただ、覚悟はしていたけれど産声はなく、私からは見せないように素早く別室へ連れて行かれてしまった。
このときは涙もなく、脱力感に身を任せながら赤ちゃんの処置を待った。

私たちの子はどんな顔をしているのか。。どっちにどのくらい似ているのだろうか?
でもこの子はもう死んでしまっている。
私は死んでいる赤ちゃんの顔をちゃんと見れるだろうか。。
前日までは色々考えて怖かったけれど、赤ちゃんに会うと返事をした。

取り上げてくれた助産師さんが色々と丁寧に再確認をしてくれた。
まず、赤ちゃんに会いますか?
へその緒は要りますか?
母子手帳に記録は残しますか?
このあと会いたい人、会いたくない人はいますか?
面会者の方とはどのタイミングで会いますか?
などなど。

そして、分娩台に横になった状態のまま赤ちゃんと会いました。
目を固く閉じて動かない赤ちゃん。。。

会った瞬間、ひたすら「ごめんね」って言うしかありませんでした。

すかさず助産師さんが「ごめんねじゃないよ。ありがとうって言わなきゃ」と。

「無事に産んであげられなくてごめんね。でも私たちの元に来てくれてありがとう。9ヶ月だったけど、あなたを待つ日々はとても幸せだったよ」と伝え直しました。

私の左腕に赤ちゃんを乗せてくれて、少しの間抱っこをさせてくれました。

分娩室に私たち夫婦と赤ちゃんだけにしてくれて、とても静かな空間に私たちのすすり泣く声だけが響く。

ひたすら2人で泣きながら、鼻と口は私に似てるのかな。パーツはよっちゃんママに似て配置は俺に似てるかななどと言い合った。

せっかく会えたのに、目を開けてくれることはない。声も聞けない。。
ただひたすら悲しい時間だった。

一旦赤ちゃんを引き取ってもらい、
個室の病室へ移動。
改めて面会に来てくれた母、姉、義父に会い、
ここで赤ちゃんに会うかを最終確認。

義父はギリギリまでためらっていたけれど、みんな赤ちゃんに会うことに決めました。

看護師さんが普通の赤ちゃんの面会と同じように透明のケースに寝かせて連れてきてくれました。

白い布に包まれている以外は、普通に生まれてきた子と同じように産着を着せてくれていたり、札には◯◯ベビー2020gと書かれていたり。。うれしいような複雑な気分でした。

我が子の顔を見た途端、みんなが涙した。
母にとっては3人目の孫、義父にとっては初孫がこんなことになってしまって、申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうで、頭がどうにかなりそうでした。

こんな辛い面会をさせるくらいならこの場に呼ばず、2人で全て済ませてしまってもよかったかなとも思いました。

火葬までには24時間経過しないといけないとのことで、それまでは好きな時に会っても良いとのこと。
その日の夜は病室に泊まってくれる旦那と娘との3人の時間を過ごしました。

2人で決めていた名前とお腹に呼びかけていたあだながあり、その晩から3人でいるときは「よっちゃん」と呼びました。

旦那は3人でテレビを観たり、川の字にして寝てみたり、よっちゃんを囲んでごはんを食べたり、聞かせたい音楽をiPhoneで聞かせたり・・・産まれたらやりたかったことを淡々と叶えていました。

私は旦那のその姿を見ていてさらに胸が苦しくなっていき、生きて産んであげられなかったことを深く深く悔やみ続けていました。

旦那は一晩中一緒に過ごしたかったみたいだけど、暖房のよく効いたこの部屋で一晩過ごさせるのは流石に無理と判断し、2時間程過ごした後一度引き取ってもらいました。

その後は姉と母にお願いして買ってきてもらっていた折り紙で鶴を折りながら朝まで過ごしました。

朝になって再びよっちゃんを連れてきてもらい、3人で朝日を見ました。
今日の13:00にはお別れなのでそれまでの間よっちゃんとのわずかな時間を過ごしました。

夜な夜な折った鶴の中からひとつずつ開いて内側によっちゃんへのお手紙を書くことに。

旦那の手紙には、僕たちは協力しながら生きていくからね。安心してね。と、心配させないようなメッセージが書かれていたけれど、
私はまだ混乱している気持ちをそのまま書くことしかできませんでした。

私はこれからよっちゃんと過ごす日々しか考えていなかったんだ。
これからどうやって生きていけばいい?
よっちゃんと過ごした9ヶ月はとても幸せだったよ。ありがとう。

私は確かによっちゃんを産み、よっちゃんの母ではあるけれど、お母さんと呼ばれてもとても複雑で、娘にこんな情けないメッセージしか書けず。。

産んだだけでは母にはなれない。
そう強く実感しました。

葬儀屋さんが来る時間が近づき、婦長さんの勧めで最後に抱っこさせて貰いました。

ずいぶん時間がたっているので、もう無理だろうな。冷たいカラダを再認識するのも辛いなと思っていたけど、まだ体は柔らかく、最後にしっかり抱っこできて、抱きしめてあげられてよかったと思いました。
棺の準備ができるまでの30分くらいずっと抱っこできました。

ずっとこうしていたい。という気持ちとともに、顔色が変わっていく娘がかわいそうでもあり、キレイなお顔のうちに送り出してあげたいと思いました。

2人でよっちゃんのために用意していたファミリアのロンパースとスタイを着せてあげ、母の買ってくれた靴下と帽子を被せてあげて、レースのベビードレスを上からかけてあげました。

棺の中に折り鶴と手紙、おもちゃ、お菓子を添えて、前日に用意していた花束をばらし、よっちゃんの周りに敷き詰めていきました。

棺の中で天使になったよっちゃんはとてもキレイだけれど、ばあばの用意してくれたこのキレイなベビードレスで一緒に退院したかった。
あと1ヶ月生きて生まれて欲しかった。。
悔しくてまた涙が溢れた。

2人で棺の蓋を閉じ、エレベーターの前まで運びました。私たちは火葬場には行かず、葬儀屋さんにお任せすることにしたので、ここでお別れでした。


あれからもう2週間経ちますが、私もあの時から時間が止まってしまっています。

眠りから覚める瞬間が一番辛くて、ペタンコになってしまったお腹をさすり、現実なんだな。もういないんだな。と涙が溢れ、胸が締め付けられます。

私は精神科のカウンセリングも受け、ひとりにさせたくないという周りの配慮で今は実家にいます。

よっちゃんに会う準備をしていた自宅にいるのが辛く、大きなお腹で通っていたスーパーにも行けず、知り合いに会わない時間に外出し、いつもと違う方向の一駅隣の町でコソコソ買い物したりしていたので実家にいる今はそこは回避できています。

ただ、実家に帰ってから一歩も外に出られていません。

前に進まないとと焦っても頭も心もついてこないんです。TVを付けても雑音にしか聞こえず、娯楽に触れることが逆に辛いです。

これまでに経験したことのない辛い状況にどうしたらいいのかわかりません。

megさんの今の状況はいかがでしょうか?
時薬ってほんとうに効くのでしょうか?

また妊娠できるかどうかも不安になりますよね。

なんだか一方的にとても長くなってしまいごめんなさい。

megさんが少しでも回復し、穏やかに過ごせるようになっていることを心から願っています。






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